癌告知記念日

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今日 812日は6年前(2004年)に医師から「癌告知」を受けた思い出深い記念すべ?き日です。
 この2年前(2002年)の11月頃、初診で「喉頭ポリープ」と診断されて以来、ポリープ摘出手術を延べ3回行ったが、この3回目の術後、全身麻酔から覚醒して間もない時間に告知を受けた。
 ポリープと診断した医師からは「100%癌に移行する事はない」と言われていただけに、T医科大学病院耳鼻咽喉科音声担当T助教授から「申し訳ない、術後直ちに行った生検結果から喉頭悪性腫瘍に間違いありません」と言われた時は、なんと表現をしたら良いのか分からないほどショックを受けた。これを称して「青天の霹靂」とでも云うのか・・・以来、当該病院への信頼を100%失い一刻も早く退院したかったが、病期確定のための各種精密検査を受診しなければならないため、止む無く約2週間の入院生活が続いた。 確定診断では病期Uと云われ、治療の優先順位は@喉頭摘出 A放射線+抗がん剤 であった。

 入院中に他の病院転院を考え、持ち込んでいたノートPCでインターネット検索の結果、当時最先端の手術法を持っていたK大学病院のN助教授への紹介を貰って受診するも、生憎フランスに留学中。代理の若い医師によると、私の病期は既にW期で、喉頭温存手術は出来ず喉頭全摘手術を早く受けないと手遅れになると言われてしまった。
 どうしても手術を受けたくない私は同大学内の放射線科にセカンドオピニオンを求めた。ご意見は若手医師ほど切迫したものではなかったが、このようなケースの場合放射線科の意見は弱い。このままだと「あの若手医師による手術を受けなければならない。何としても避けねば・・・」
 

次の一手に窮して熟慮を重ねた結果、K大学病院放射線科からKG大学病院放射線科のU医師宛に紹介状を書いてもらい、セカンドオピニオンを求めた。U医師は当時やっと普及し始めた放射線の四次元ピンポイント照射の第一人者であった。
U医師のご意見はこの放射線照射でも再発リスクは残る。従って、当病院の耳鼻咽喉科の意見を聞いてみたらどうだろうと、土曜日の午後にもかかわらず、耳鼻咽喉科で迅速な受診ができた。
 今でも鮮明に覚えている。耳鼻咽喉科のS先生は気管・喉頭の専門医ではなかったが、U医師の助言と自身のご判断で、当日は病棟勤務であったS助教授(専門医)に連絡。直ちに病棟から外来に駆けつけてきてくれた。しかもこのKG大学病院でも喉頭亜全摘(喉頭一部温存手術法)が可能だと言う。・・・この時点で「すべてKG大学病院におまかせしよう」と気持ちが固まった。

 9月中旬、この間、声門部に出来ている悪性腫瘍がどんどん大きくなって気道を塞いでしまうリスクが出てきたので、緊急処置として内視鏡下レーザー切除術で腫瘍摘出(通算4度目)した。最終的には予後を考慮し喉頭全摘を受け入れることにしたが・・・結論を得るまでの約一ヶ月間、実に長く暑苦しい日々であった。恰も医療難民の如く走り回った夏はこれで終わった。

◇ 1007日 入院 
◇ 1016日 喉頭全摘手術
◇ 1108日 退院

【後記】
 執拗に喉摘を避けたいのは決して私だけではないだろう。それほど失声と云う障害はダメージが大きい。まして商売柄会話が出来ないのは致命傷だ。生保会社のの拠点長としてリーダーシップを発揮しながら拠点運営を行ううえで、「声」ほど重要なツールはない。ただし、食道発声が習得できれば「何とかなる」。
 会社は20048月中旬〜12月末まで後任をおかず「ポスト」を空けたままにしていてくれた。外資には稀な温情と受け留めた。
 恩を仇で返すわけにはいかない。200412月末「休職願い」を提出、受理された。食道発声には手こずったなぁ・・・この後およそ2年間習得に努めたが出来なかった。でもその後「ヴォイスプロテーゼ」と言う医療用具が見つかり、会話による意思疎通ができるようになったのは周知のとおりだ。